鞍陵会(旧制鞍手中学校同窓会・福岡県立鞍手高等学校同窓会)
鞍陵博物館
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◆ ◆ ◆    「学徒動員と鈴懸の青春」 「鞍中坂を駆け抜けて」     ◆ ◆ ◆
(中学25回生寄贈の資料より)
中学25回生同窓会の記念誌として発行しました「学徒動員と鈴懸の青春」と「鞍中坂を駆け抜けて」につきまして、先日、戦時中の資料として外部から問い合わせがありました。
そこで「学徒動員と鈴懸の青春」と「鞍中坂を駆け抜けて」を鞍陵会館に寄贈し、より多くの人のお役に立てればと存じます。
また、この冊子についてホームページで紹介いただければ幸いに存じます。
因間 藤雄(中25回)
「学徒動員と鈴懸の青春」
 ●  ページ 220頁
 ●  記念 卒業50周年記念
 ●  編集委員 因間 藤雄、香月 弘己、近藤 源三、山下 八洲夫、宮本 重義、弘 幸泰、行弘 欣一
「鞍中坂を駆け抜けて」
 ●  ページ 61頁
 ●  記念 傘寿記念
 ●  編集委員 因間 藤雄、近藤 源三、山下 八洲夫、弘 幸泰、古田 稔典、宮本 重義、森 善幸、大村 重州
「学徒動員と鈴懸の青春」より抜粋
~ はじめに ~
 「老人は過去を懐かしみ、来し方を語るが、青年は未来を語る」と言われている。しかし、この福岡県立鞍手中学校(旧制)25回生の「学徒動員と鈴懸の青春」という記念誌は、単なる懐古趣味の本ではない。現在から発する後世へのメッセージである。
 なるほど、我々のことを世の人は老人というかもしれない。中国の詩人杜甫は「人生70古希稀なり」といった。つまり、我々は“古希”の齢に達したが、古希稀なる老人とは決して思っていない。あのサムエル・ウルマンは、「青春とはある人生のある期間を言うのではなく心の持ち方を言う。年を重ねただけで人は老ゆるのではない。理想を失うとき始めて老いる。」と喝破している。換言すれば、10歳代・20歳代の老人もいれば、70歳代の青年もいるということになる。今、振り返ってみれば、我々の10代の中学時代は、抑圧された暗黒の時代で明日のみえない理想も希望もない日々だった。その意味では若年寄りだったかもしれない。
 鞍手中学校が誕生し、学制改革で鞍手高等学校と校名が変わり、80年の歴史を刻んできた。この80年間の歴史の中のほんの4・5年間を鞍中生として過ごした。その在学中は、どの鞍中、鞍高生をも体験しえなかった激動の戦中と混乱の戦後があった。この何びとも経験しえなかった体験を文字にし、記録に残し、遺産として後世に伝える義務があると思い、この記念誌発刊を思い立ったわけである。そして、こうした悲惨な体験は二度とあってはならないという願いも込めているわけである。
 昭和16年に大東亜(太平洋)戦争が始まり、その翌年に我々は鞍中生となった。鞍中に入学したときから、国防色の戦闘帽に制服・ゲートル編上靴の姿であり、生地も素材も粗末なものであった。学校には、軍服姿の教官がいて、教練という軍事教育があった。武器庫には三八式の銃や兵器があり、軍事勅諭を覚えさせられたりした。年1回“査閲”というものがあって、軍事教育の成果を検閲するため、軍本部から上級の将校がきて採点して帰って行った。その査閲の成績・評価の良否が、その中学校からの陸士・海兵の合格人数を左右していたらしい。中学校は軍関係の下請けとなって即戦力の人間養成機関ともなっていた。
 また、一方では、麦刈り、田植え、稲刈りなどの勤労奉仕や、寺にとまりこんでの極寒の中の土木作業や飛行場などへの過酷な作業へと駆り出されていった。戦局が日々熾烈を極めるにつれ、ペンをハンマーやスコップに握り替え、工場や炭鉱などに追いやられ、馴れない旋盤作業、砲弾作り、溶接、鋳物、仕上げ作業などの日々が続いた。学徒勤労動員令のもと、学校には行かず、例外なく25回生の我々は各職場へと散っていった。またある者は、予科練、特幹、海兵、陸士など兵役関係に進み辛酸をなめさせられた。中学校には予科練などに行く生徒の募集獲得にノルマを達成するために、生徒を説得・勧誘していたようである。「お前らは消耗品だ」という教師もいた。
昭和50年鞍陵祭総会当番「うちわ」「しおり冊子」
この回より、今の冊子が伝統として今にうけつがれている。
昭和51年鞍陵祭当番幹事の際、着用した法被及び団扇
 次第に太平洋戦争が絶望的になり、「本土決戦」という言葉を耳にするようになった。我々は皇国の民として、神国日本の不滅を信じ、己れを犠牲にし、極度の緊張を強いられた。こうした極限の状態が敗戦の昭和20年8月15日まで続いた。中学4年16歳の夏だった。中学生活の大部分の時間を我々は動員・兵役ということで、お互い学校にも十分行かず、ばらばらに引き裂かれていたが、敗戦を機に各地や各方面から徐々に学校へ戻ってきた。心も体もずたずたで虚脱状態であった。敗戦を境に、今までの軍国教育が一瞬にして崩壊し、民主主義教育へと180度の転回をした。やっと授業が始まっても、民主教育にそぐわない部分の教科書を墨で黒く塗りつぶす作業があった。今までの教科書の中の軍国主義的な箇所や皇国史観は教科書から抹消するように指示され、墨で塗りつぶした。教科書もノートも参考書も文具も不十分な戦後の教育が始まった。学業再開といっても、中学時代の大切な時期を動員や兵役で過ごし、勉強が出来ていないため、基礎・基本の学力に欠けていたことはいなめない。
 我々、鞍中25回生が“戦争”ということで、感じやすい少年後期をどのように送り、その少年の眼に“青春”がどのように映っていたか。鞍中時代の青春とは何だったのか?動員・兵役によって、離散し友達の顔や名前を十分に知らないまま卒業してしまった。戦後の混乱期の特殊な現象だったのだろうか、4年生で卒業してもよいし、5年生までいってもよいという時代だったので、尚更、友だちが一部に偏っている。このことが、卒業後、50年経った今、こうして記念誌発刊という作業の中で一つの輪になれない要因があったのだろうか。
 しかしながら、記念誌を編んでいくなかで、友達の輪が更にひろがり、堅い糸で結ばれていったということは事実であり、大きな収穫っでもあった。
 この記念誌のいたる処に、25回生の軌跡がある。苦悩が詰まっている。この本が、中学時代のお互いの記憶を甦らせ、生きる力となり、お互いを結ぶ懸橋 となればと思っている。この本が、既に黄泉の旅に発たれた友への鎮魂となり、恩師の先生方へのご恩返しになれば喜びこれに過ぎるものはない。
 また、この本が唯単に25回生のみならず、鞍中、鞍高の先輩、後輩や関係者、世の多くの人々に読んでいただくなら望外の喜びである。
 最後になりましたが、この記念誌発刊に際し、鞍手高等学校田代一久校長、鞍陵会坂田友三郎会長に玉稿を寄せていただきましたことに対して、厚くお礼申し上げます。
「学徒動員と鈴懸の青春」に添えられた恩師宛の手紙
平成11年2月26日
鞍中25回生恩師 殿
鞍手中学校25回生
記念誌発行準備室
そ こ ら ま で 出 て 春 寒 を お ぼ え け り
(三千代)
 春立つとはいえ、余寒まだ厳しい毎日ですがご遺族の皆様にはいかがお過ごしでしょうか?
 さて、我らが記念誌「鈴懸の青春と学徒動員」が、やっと完成致しました。
 我々鞍中時代はまさに波乱万丈の時代でした。鞍中在学中は戦中、終戦、戦後が同居し激動の時でした。その大切な多感な時を我々の教師として導いていただきましてありがとうございました。我々も古希の齢いとなりました。それを機会に鞍中時代の思い出をまとめ本にしました。先生に直接読んでいただけないのが残念ですが、御霊前にお供えさせていただきます。先生の御霊の安らかならんことを念じ、御遺族の皆様の御健勝をお祈り致しています。
この冊子「学徒動員と鈴懸の青春」と「鞍中坂を駆け抜けて」に関する問合せは、鞍陵会事務局までお願いします。
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